新しい贈与論が5周年を迎えました。

こんにちは、代表理事の桂です。2024年8月1日で、一般社団法人新しい贈与論は設立5周年を迎えました。

5年の間には浮き沈みがありましたが、さまざまな方にご支援いただいて、なんとか継続することができました。今回は5周年の記念記事ということで、これまでによく聞かれた3つの質問にお答えしたいと思います。

質問は「どうして新しい贈与論を作ったのか」「会員にはどういう人がいるのか」「なぜ寄付ではなく贈与と名付けているのか」というものです。

まずは、どうして新しい贈与論を作ったのか。よく聞かれます。どうして作ったんでしょう。正直わたしにもよくわからないのですが、でも一つ言えるのは、新しい贈与論を一番待ち望んでいたのはわたしだということです。手前味噌ですが、他では味わえない幻想的な時間を過ごしています。

寄付先を決めるというのは、とても奇妙な行為です。部分的にみれば、人助けに似ていたり、投資に似ていたり、推し活に似ていたり、政治の投票に似ていたりするところもありますが、やはりそのいずれとも根本的には異なります。阿修羅像やケルベロスのように、それらすべての顔を持っているような気もします。

巷では「寄付をしたいけど、どこにすればいいかわからない」という声を、ちらほら耳にします。まったく同感で、寄付先の団体を選ぶのは、ほんとうに難しいことです。だったら、その難しさについてみんなで考えたら、悩む時間ごと面白くできるんじゃないか。そう考えてできたのが、この場所です。

寄付先の選択って、自分の価値観や人間観が問われている感じがするし、それについて議論するのは、ふだん表に出さない心の区域をさらけ出している感じがします。お互いの寄付の理由を聞くと、その人の人生が垣間見えてきます。そういう不思議な感覚を、みんなで共有できたらと思います。

次に聞かれるのは、どんな人がいるんですか、という質問。こんな取り組みに参加するくらいですから面白い人が多いんですが、あえてこういう言い方をすれば、ほとんどはふつうの人たちです。いまは全員で90人くらい。NPOの関係者もいますが、それほど多くありません。10パーセントか、それくらい。職業では会社員が一番多く、あとは士業、教員、研究者、経営者、学生などなど。さまざまな方がいます。

日常的に接する人間関係は偏りがちですが、ここには本当に色んな人がいて、そういう人たちと話すのは新鮮な喜びがあります。年齢、性別、肩書などに囚われずに、それぞれがひとりひとりの人間として会話できる場所です。

たまにNPO業界ではびっくりするくらい有名な方もいますが、そういう方もフラットに話しています。多くの方はNPOとは縁が薄く、ちょっと寄付が気になったとか、どこに寄付したらいいかわからないとか、ここに来るまで寄付したことなかった、という方もたくさんいます。新しい贈与論にはディープな議論もありますが、「寄付オタクの集まり」にしたいわけではありません。誰でも気軽に参加し、寄付や贈与について語れる場所でありたいと思います。ですから、これからも色んな人に来てほしいです。

さいごは、なんで寄付じゃなくて贈与なの、という質問。たしかに対外的におこなっているのは寄付だけなのですが、実はふだんの雑談や勉強会では、贈与に関するものが多いです。贈与というと堅苦しいですが、プレゼントやお土産、人助けやボランティア、ご祝儀やお賽銭。こうしたものはすべて寄付の親戚であると考え、これらを総称して、わたしたちは「贈与」と呼んでいます。

日本は残念ながら寄付の多くない国ですが、一方で、世界でも稀な贈答文化を育んできました。たとえばバレンタイン。バレンタインは舶来の文化かもしれませんが、そこにホワイトデーができて、義理チョコや友チョコまでできてきた。贈与を増殖させてきた。このような例はいくらでもあげることができます。日本は古来、贈答大国なのです。

寄付だけでなく贈与について考えることで、このように思考の射程を広げることができます。そしてチャリティ観念の希薄だった日本において、このような贈与の延長として寄付を考えることは極めて重要なのではないか--というのは、わたしの勝手な仮説です。興味があれば、一緒に話しましょう。

新しい贈与論は、いま新規会員を募集しています。

メインはSlackで、「井戸端」「居酒屋」「寄合」「囲炉裏」「喫煙所」「掲示板」といったチャンネルが並んでいて、のんびりと進行しています。あと月に一、二回はオンラインで集まる機会があります。たまにオフ会もやっています。

トップページ https://theory.gift/ から概要を確認し、ご入会ください。たくさんのご参加を、お待ちしています。

会員インタビュー|世界一周の経験から興味を持った寄付

高城晃一さん
プロジェクトマネジメント、エンジニア


コロナが始まる直前まで、1年ほどかけて世界一周していたという高城さん。旅をする中で、経済格差やお金の正しい使い方について考えることが増えたそうです。

帰国後に最初の一歩としてトライしたのが毎月の寄付。でもこれが難しい。「一体どこの誰にお金を預ければ有効に使ってもらえるのか」「そもそも正しく使われるのかすら分からず寄付先が決められないこともありました」と語ります。寄付先選定、寄付の方法、ひいては贈与とは一体なんなのかを学びたい、そんな思いで入会を決めました。

■周りに寄付の話をする人がいなかった

「寄付はしたいけれど、寄付先を探すのは大変」だと感じていたので、過去の寄付の事例に、推薦文や投票した人の言葉が載ってるのを見て、新しい贈与論がまさにぴったりだと感じました。寄付も負担のない範囲でやろうと決めていて、出すとしたら1-2万円くらいを想定していたので、10%が運営費、90%が寄付に回るというのを知ったことも相まって、入会したいと思いました。

■世界一周中に感じた違和感

自分は、努力して先進国に生まれたわけではないし、運よく、お金をもらいやすい環境にいるだけなのに、同じような仕事をしていても、仕事をしてもらえる金額が違う。お金の価値が全然違う。ということを目の当たりにし、なんでこんなに価値が違うんだろうと疑問を持ちました。

そして、お給料は全然違うけれど、人としての価値の違いはあるんだろうか。生まれた環境、持って生まれた特性によって、運の要素で決まることが大きく、その運で人生が位置付けられていることを強く感じました。

■コロナ禍で深刻さを増した経済状況

世界一周からから帰国後すぐに、コロナが始まりました。そんな折、フィリピンで住んでいた時に、近所のコインランドリーで働いていたおばちゃんから連絡がきました。ロックダウンで仕事もできない、家からも出られな状況になったとのこと。子どもがいる人は、ミルクすら与えられないような状態に陥っている状況でした。

ただ、お金を送るのも大変で、銀行口座を持っていない人も多く、フィリピンのAmazonのようなところで代理購入などの形で出来る限りの支援をしていました。

■どういうところにどんなふうに困っている人がいるか知らない

上記のような経験から、いざ、寄付をしたいと思っても、蓋を開けてみると、全然、どこに寄付をすればいいのか、どんな使われ方をするのかなど、全く分からなかったんです。自分にない視点を知りたいというお思いで、毎月の投票などからまな学ばせてもらっています。

■入会に興味がある方へ

入会前の抵抗を感じたのは、投票の推薦人や推薦文が固めで、ややハードルを感じていました。難しい議論をしていそうという印象を受けていたので、自分でも大丈夫なのかという不安もありましたが、今は、興味があれば、気軽に入ってみたらいいんじゃないという気持ちです。

自分の知らない視点を知ることができるのが、とても楽しいです。


Author:東詩歩

会員インタビュー|贈与について知りたい、ファンドレイザーとして

鈴木亜香里さん
NPO法人地球市民の会ミャンマー駐在員・ファンドレイザー

ミャンマーに駐在しながら、ファンドレイザーとして「寄付人口を増やしたい」という思いで活動されている鈴木亜香里さん。様々な寄付の実践を行っており、「毎日寄付」という取り組みで2021年の寄付月間大賞にも選ばれています。

「世界は贈与でできている」という本を読んで自分が考えていることが言語化された感覚があり、贈与についてさらに学びたい、と思っていたタイミングで新しい贈与論の存在を知り入会されたそうです。

■寄付をしたいと思ったきっかけは、感動に触れたため

私が働いているのはお給料の安い業界だったので、もともとは、寄付をするという選択肢がありませんでした。身近にいるのも多額の寄付をしている人たちだったので、自分にはできないと思っていました。

ただ、お金持ちになったら寄付したいとは思っていました。国際協力をしていると、寄付によってできた学校の案内を、寄付していただいた大口ドナーさんに対してする機会があります。その時にドナーさんが感動して泣いたりしていて、「こんなに感動するならやりたい」と。

■寄付は誰でもできる

日本にいる時、営業という仕事が好きだったんです。商品の魅力を伝えて、買ってもらうことが好きで。ミャンマーではそのような仕事がなかったのですが、寄付集めも同じような仕事だと考え、ファンドレイザーを始めました。勉強目的で自分も寄付をしていくうちに、お金持ちじゃなくてもできると思うようになりましたね。買い物はお金で買ったものが返ってくるけれど、寄付はお金以外のなにかが返ってくる。それだけの違いだと感じています。

■「寄付をしたい」という感情

ミャンマーは寄付ランキング上位の国で、よく寄付をする国民性です。その文化が最も現れていると感じたのが、手紙の最後に書く「今よりもっと寄付できますように」という決まり文句です。初めて読んだのは私たちの寄付を受け取った人の手紙で、「もっと欲しいということ?」と最初はとまどいました。「今よりもっと稼げて寄付できたら、あなたも私もハッピー」といった意味なんです。日本の定型文である「ますますのご発展をお祈りします」と似ていますね。

今では私もその文化に染まり、日本でいう「人として与えられる存在になりたい」といった願いと同じように、「もっと寄付できるようになりたい」と自然に思っています。

■入会に興味がある方へ

楽しいし、お得です。寄付ができるし、さらに勉強もできる。読書会もとても楽しいです。他で贈与の本を教えてもらえることってなかなかないし、お勧めしていただいた本にハズレがなかったので。

読書会もそうだし、寄付先という観点からも、自分だけでは出会えないものと出会えるのは新しい贈与論の価値だと思いますね。


Author:市村彩

会員インタビュー|不思議なコミュニティへ自分を投じてみるという体験

加藤めぐみさん

“「新しい贈与論」は、世の中の多様な問題、多様な善意、多様な事情、多様な思想に触れることができる場所だと思います。雨垂れのような刺激を求めている方に、入会をおすすめします。”

と答えてくださった加藤さんは、「いいことをするため」に加入するという感覚というよりは、「新しい贈与論というコミュニティそのものに惹かれて」入会を決めたそうです。


■「社会との偶然のつながり」を求めて

2020年6月、新型コロナウィルスの一度目の緊急事態宣言が明けた頃に第四期の募集があり、「前から気になっていたけれど今かな」という気持ちになりました。

当時は、緊急事態宣言が明けたといっても先行きが不透明で、人と会うこともほとんどなく、うまく言えませんが「社会との偶然のつながり」に飢えていました。募集のお知らせに "新たに寺子屋という学び舎を発足。有志の参加者がオリジナル・テキストをベースにして、効果的利他主義や贈答文化について学んでいます。" という案内があったことにも心惹かれました。


■寄付は、必ずしも、社会貢献のためでなくてもいい

新しい贈与論に入会する前は、「社会貢献意識が高くていろいろな実践をされている方ばかりが集まっているのだとすると、知識も寄付経験もほとんどない普通の会社員の私が交じるのは場違いでは......」という不安が多少ありました。入ってみると、実際に社会貢献活動を活発にされている方も多くいらっしゃいましたが、特段肩身が狭い思いをすることもなく、居心地良く参加できています。

また、これまで、ほとんど寄付をしたことはありませんでしたが、実際に毎月寄付をしてみると、自分の寄付の傾向が少しずつ見えてきました。①すごく共感するというもの②こういう問題があったのか、知らなかったというものに大別される気がします。

さらに、お題制*になってからは、「こういう解釈だったか、うまい!」という感覚があったものに投票することもありますね。これは、共同贈与という縛りがあるからこそ、生まれる寄付感覚なのかなと思います。


*お題制:毎月の投票先の推薦の際に、運営側から、このようなテーマはどうですかというお題が発表されます。あくまでも、テーマは推薦先を考える手すりのような存在であり、強制的なものではありません。


■入会に興味がある方へ

「新しい贈与論」は、世の中の多様な問題、多様な善意、多様な事情、多様な思想に触れることができる場所だと思います。雨垂れのような刺激を求めている方に、入会をおすすめします。


Author:東詩歩

会員インタビュー|自分の価値観の範疇を超えた寄付がしてみたかった

中村祥眼さん
株式会社Nombey 代表

新しい贈与論に入会する以前から、クラウドファンディングをはじめNPOのマンスリーサポータなど、個人的に寄付をする機会が多かった中村さん。しかし、それだけでは、自分の価値観に沿った選択しかできず、もっと違うやり方、選択ができるのではないかという期待で新しい贈与論に入会されたそうです。

■共感だけではない、寄付の形

私は、もともとベーシックインカムなどにも興味があり、寄付をする機会もそれなりに多くありました。しかしながら、あくまでも、そうした個人単位での寄付は、特定のイデオロギーがあって、応援したいという気持ちで団体を選択していました。こういう活動をしましたと報告が送られてくるのを見るのも楽しかったのですが、それでは自分の価値観の範疇を超えないなと気付き、違ったやり方で寄付をしてみたいという期待がありました。

いざ、新しい贈与論で寄付をしてみると、自分の中にもいろんな寄付の傾向があるんだなと思います。毎月投票をする度に、基準は異なるのですが、近くに困っている人がいることや、地方格差など自分にとって共感できることはもちろん、寄付をしてみたらどのように使ってくれるのかが楽しみだなというところなども選択しています。

■日常の「贈与」に気付くきっかけに

新しい贈与論に入会してから、何かが大きく変化したわけではないですが、日常的に贈与というものを意識するようになりました。特に、何かをもらっていることに気付けるようになりました。

誰かにものをあげるときには、前より丁寧に考えるようになりました。また、お金だけじゃなく、相手のために時間を割くことも贈与だなと思っています。以前よりも、意識して相手に贈与するようになり、同時に受け取ることも意識するようになりました。

■入会に興味がある方へ

「寄付が手段であること」が世の常だと思います。何か共感できる課題があって、それを応援する。対して、新しい贈与論は「寄付が目的」です。何かしらの団体を応援しているのではなく、寄付そのものを研究しているのだなと感じます。他にこのような団体はないので、普段、寄付されている方が、ここで自分の寄付活動を立ち返ってみるのもいいと思います。


Author:東詩歩

寺子屋レポート|物語する贈与


大島弓子の短編漫画「ロスト ハウス」を題材に「偶然のふりをする贈与」について考察する

佐々木耀
大島弓子『ロストハウス』

導入

物語は主人公の「エリ」が「樫原」にナンパされる場面からはじまる。
樫原は初めてエリを部屋に招き入れた際にレイプしようとするが、未遂で終わる。
その後、謝罪する樫原に対してエリは以下のように要求する。

そうだわ 一ヶ月間あなたがあのへやの鍵をかけないですごしたら許してもいいわ
そしてその間あたしがいつなんどきあのへやに入ろうとあなたは完ぺきにわたしを無視してすごすの
それができたらね ※1
(p.131中段中コマより)

エリの要求は、適切な謝罪の方法とは到底思えない。
なぜこのような要求を突きつけたのか、それは彼女の過去に起因する。

エリの過去

エリは幼少時代、隣人の「鹿森さん」の部屋に毎日のようにいりびたっていた。
散らかっていていつも鍵が開いている、その部屋がエリには魅力的だった。
しかし、鹿森さんの彼女の事故死と、エリの一家の引越しをきっかけにその関係は終わる。
エリはその体験を「永遠に失われてしまった解放区」と形容している。

すなわち、前述した「エリの要求」とはこの「解放区」の復活を目論むものである。
ではこの「解放区」とは具体的にどういうことか。

解放区

わたしはこの世にたったひとつ好きなものがある 他人の散らかった部屋である
(p.128下段右コマより)

これはナンパに遭い、初めてエリが樫原の部屋に訪れた際のモノローグである。
すなわちこの時点でエリは【解放区=鹿森の部屋=散らかった部屋】と考えており、
同様に散らかっている樫原の部屋を「解放区」に見立てていることがわかる。
しかし、レイプ未遂によってこれが誤りであることに気づいた。
だが、エリは「解放区」の復活を諦めない。そして要求(※1)を持ち出したのだ。

要求の前半「部屋の鍵をかけないこと」は鹿森さんの部屋がそうであったということだろう。
加えて、「入退室が自由な」遊び場を指していることは容易に想像することができる。
では、後半の「わたしを無視してすごす」とは何か。

この問いに答えるヒントとして、過去に鹿森さんの部屋で「鹿森さんの彼女(以下彼女とする)」と居合わせた際の、エリのモノローグを引用する。
彼女がお茶を飲むときはお湯のみをふたつ用意する
そして わたしの前にひとつ置いてから自分も飲むのだった
わたしはお茶をのんでものまなくてもよかった
湯気がゆらゆらと形を変える様子を見ているだけのときもあった
(p.147下段)

これがエリ視点のモノローグであることに留意したい。
この「わたしはお茶をのんでものまなくてもよかった」が「わたしを無視してすごす」と対応するのではないだろうか。
彼女はエリにお茶を出してくれる。しかし、それはあくまで彼女がお茶を飲む「ついで」である。
彼女がお茶を飲むかどうかはエリが居る居ないに関わらない。その意味でエリは「無視されている」。
また、彼女側がお茶を「飲む」と漢字表記されているのに対して、エリが「のんでものまなくてもよかった」の表記は仮名表記であることにも注目したい。
この仮名表記は「のんでものまなくても」は「(お茶を)飲んでも飲まなくても」と「(雰囲気・要求を)呑んでも呑まなくても」という二つの解釈を意図していると思われる。
自身が「雰囲気に呑まれる事のない」関係性が成立する場こそが、エリにとっての「解放区」なのである。

偶然のふりをする贈与

「のんでものまなくてもよかった」が「わたしを無視してすごす」に対応することを前述した。
しかし、これはあくまでエリの視点から捉えた場合である。
では、(鹿森さんの)彼女の視点からするとどうだろう。これは明らかに「無視していない」と言わざるを得ない。
言い換えるならば、彼女がお茶を飲みたくなったタイミングで「たまたま」エリが居合わせたのだという「ふり」をしたということである。

彼女は「偶然のふりをする」ことによって、エリに「解放区」を与えたのだ。無論、「解放区」の主人たる鹿森さんも同様に振る舞っていたことだろう。これらは「偶然のふりをする贈与」と言うことができるかもしれない。

そしてこの「偶然のふりをする贈与」は間違いなく、私たちの日常にもありふれている。
例えばそれは、作りすぎた料理をお裾分けすることであったり、要らなくなった衣服を他人にあげることであったりする。
穿った見方をすれば白々しくも捉えられる。だが、我々はそれらを当たり前のように受容し、むしろ他社との関係性を維持する上で必要としながら生きている。

「偶然」と「偶然のふりをする贈与」

エリは幼かった頃の体験であるがゆえに、「偶然のふりをする贈与」を「無視されている」と解釈し、自身の「解放区」を実現するための要求としてそれを加えた。
しかし、残念ながらエリの思惑通りに「解放区」が復活することはない。
樫原宅が盗難に遭い、樫原の部屋の一切のものがなくなってしまうのである。
エリはそのことに責任を感じ、弁償することを持ちかけるが、樫原はそれを拒否する(厳密には一旦は借りるが、それらを必ず返済すると述べ、アルバイトに勤しむ)。

ここでもうひとつ、エリのモノローグを引用する。
盗難があった後で、依然として鍵が開けっぱなしの何もない部屋にて、バイトに疲弊して寝入っている樫原が起きるまでエリが待つシーンである。

なんにもないけど
いまのここの空気は
あのへやににてなくもない
(p.160中段右コマ)

「いまここの空気」、すなわち「樫原の部屋」では、エリは「無視されている」と感じているし、樫原は寝入っているため実際にエリを「無視している」。
一方で「あのへや(=鹿森さんの部屋)」では、幼い頃のエリは「無視されている」と感じていたが、実際のところ(鹿森さんの)彼女は「無視していない」。
そして、それらは同じではなく、異なるわけでもなく、「にてなくもない」のである。
その場で感じている「偶然」と、過去に感じた「偶然のふりをする贈与」との差異を、大人になったエリが細やかに感じわけている様子が、この「にてなくもない」というモノローグから浮かびあがってくる。

私たちは他者に贈与をおこなうために、それよりも遥かに多くの偶然を経由している。
だとすれば、実際にこう言えるかもしれない。
「偶然」と「偶然のふりをする贈与」は「ににてなくもない」のだと。


「人類史=物語」と見立てて、特に「長期的未来に影響を及ぼす行為とその贈与性」について考察する

Sho T
相対性理論/サグラダ・ファミリア

哲学者・研究者・アーティストなどの行為は、「ある時代のある時点」においては、「何の役に立つのか?」と思われることも少なくありません。しかし、長期的に見たときに、「未来の人類に大きな可能性(選択肢の幅を広げる)を贈与している」とも考えられます。人類史の中で、「時間を越えて、与え、受け取る」やり取りについて考えてみたいと思います。まずは、いくつかのケースを見てみましょう。

【ケース1:アインシュタインの相対性理論】

相対性理論によると、時間は相対的なものであり、光速に近づくほど時間の流れはゆっくりになる、質量が巨大なものの周りでは時間の流れがゆっくりになる、ということを示していますが、「だから何なのか?」というのが通常の反応であると思われます。しかし、例えばGPSなどから得られる位置情報は、人工衛星と地上の重力の違いから時刻のずれを計算し、位置を補正しています。もし補正をしない場合、1日で数kmの誤差が出てきてしまいます。スマホが普及した現代において、この位置情報補正一つをとっても、我々の生活に大きな影響を与えています。アインシュタインが相対性理論を発表した20世紀初頭から約100年をかけた贈与を私たちは受け取っていると考えられます。

【ケース2:ガウディのサグラダファミリア】

サグラダファミリアは1883年からガウディが設計した教会建築ですが、当時完成までに300年はかかると言われ、彼は自身の死後に完成するこの壮大な計画に、身の回りの全てを捧げて貢献しました。彼が電車にはねられて亡くなった際、身の回りの全てを教会建築に捧げていたため、とてもみすぼらしい格好であったと言います。そんな彼のビジョンへの貢献を後世の人々が受け継ぎ、この教会は市民による寄付で現在まで建築工程が継続しています。彼の「自然を表現した建築」は、世界中のアーティストやビジョナリーに影響を与え続けています。また、このビジョンに対して多くの人が時間を超えて寄付・支援を行っています。

上述のケースは、長期的未来に影響を及ぼす行為とその贈与性を示す一端ですが、このようなケースでは、贈与が適切に受け取られるまでには「時間差」があることもわかります。例えば、その人の死後に世界がその人から贈与を受け取るといった時間差です。

その場合、ある種その行為者は「犠牲」とも捉えられるシチュエーションにも遭遇します。また、世界の視点からは、受け取れるまでの時間差が長いほど「機会損失」も起こり得ます。チャールズバベッジは19世紀に世界で初めてプログラム可能な計算機を考案したが、コンピュータはその約100年後の20世紀に登場しました。

そのような機会損失を繰り返さないよう、後世の人が「贈与を受け取ろう」とする努力もあります。例えば、テスラモーターズの名前は、ニコラ・テスラから引用するなど、多くの先人のビジョンを後世に気づいた人が受け取る・引き継ぐといった「時間を超えた贈与のやりとり」に積極的な人もいます。

このように、人類史というストーリーを考察すると、贈与を「長期的未来に影響を及ぼす行為」や「その受け取りまでの時間差」の視点で見ることができ、また、それを意識し積極的に時間を超えた贈与のやりとりを試みるアプローチなども考えることができるのではないかと思います。


権利と贈与

堤春乃
宮本輝『彗星物語』

 私は大学時代にスウェーデンに留学をして、ヨーロッパの各国の友人と出会いました。彼らと過ごした日々はとても刺激に溢れて楽しい日々でしたが、彼らと話をするときに、よく「権利」を主張されたことを覚えています。その度に違和感を感じていたのですが、果たしてそれは何から来るものだったのか。今回は「彗星物語」というお話から考えてみたいと思います。

 彗星物語は、13人の大家族と犬1匹の城田家にハンガリーからの留学生、「ポラーニ・ボラージュ」がやって来て、その後3年間にわたる共同生活の様子を描いた物語です。そもそも留学生を世話することになったのは、当時事業を営んでいた晋太郎が10年前にボラージュの両親に生活費と学費の面倒をみると約束したことがきっかけです。

 始めの頃は、日本語も辿々しいボラージュは、城田家の家族が色々なことが起きる中でも世話をしてくれたり、衣食住が保証されて大学で勉強に励めることに感謝をしています。しかし、2年が過ぎてボラージュも日本での生活に慣れ始めた頃から城田家の家族に対して様々な主張をし始めます。その1つがボラージュは成績優秀者となり月に17万円の奨学金を大学から貰えるようになったことで残りの1年を城田家の家ではなく、大学の寮で暮らしたい。というものでした。

 ボラージュは大学の寮で暮らしたいという主張を理解してもらうために、ボラージュの一切の生活費を負担すると決めた晋太郎の長男幸一に、一緒に他の家族の説得を手伝って欲しいと切り出します。そしてその中で幸一にボラージュはこう伝えるのでした。

 「ぼくも幸一のように自立をしたい。(社会人の幸一はすでに家を出て一人暮らしをしている。)ヨーロッパでは、みんな大学生になったら親から離れて自立する。それは当然の行為であるし、おとなになったことに対する権利でもある。」

 「ぼくはもうひとりで日本の生活をする能力がある。毎月、17万円の奨学金が貰えるようになった。それはぼくの成績が優秀だからだ。それはぼくの能力によって得た生きる糧だ。幸一の理論に従えば、僕は自立の権利がある。」

 この一節を読んだ時にボラージュに感じた違和感の正体が、ナタリー・サルトゥラージュの著書「借りの哲学」に出てくる「借りを拒否する人々」にありました。

 「借りを拒否する人々」は、借りなど存在しない、と借りそのものの存在を認めない「否認」と、借りは認めた上でそこから逃げる「逃走」の2つがあるとナタリー・サルトゥラージュは指摘します。この点においてボラージュの主張は「否認」に近いと感じました。

 自分が、権利の主張の根拠としている成果(今回でいう奨学金を貰えるくらいの大学での成績を獲得出来たこと)が、誰かからの贈与があった上で獲得できたものであるという認識をせず、自分の実力だけで獲得できたと主張する姿は、幸一が指摘するような城田家がボラージュというどこの馬の骨からもわからない異国の青年を二年間無償で支えてきた事実を排除する姿勢を受けます。

 その後、城田家と激論を交わし、結局はボラージュは寮で暮らすこととなります。しかし、もし、ボラージュが「2年間にわたる城田家の支えがあって、自分は勉強に勤しみ、成果をだすことで、奨学金を借りることが出来た。だからこそ、自分はこの17万円を活かして残りの1年寮で生活したい。」と借りの存在を認識した上で寮での暮らしを提案していたら、城田家の人々の受け取り方は大きく違っていただろうと思います。

 私がかつてヨーロッパの友人に感じた違和感も、彼らの主張には他者や社会からの贈与の認識が欠けていると感じたからだと、今回の彗星物語の一節を通じて、気づくことが出来ました。


竹取物語に見る贈与と関係

阿曽祐子
『竹取物語』

 竹取物語のシーンを3つ取りだして、贈与という視点で考える。
① おじいさんがかぐや姫を拾って育てる
② かぐや姫の提示した難題に求婚者が必死で応え、かぐや姫が判定をする
③ おじいさんが月へ帰らなくてはならないかぐや姫を引き留める

 これらの関係を贈与(与える)、見返り、贈与に伴うリスク、生まれる関係性という視点で見たい。

 ①において、与え手はおじいさん、受け手はかぐや姫。おじいさんは、かぐや姫を連れて帰るときには、決して見返りを期待していない。敢えて言うなら、成長するかぐや姫の愛らしさ、後に得た小判。だが、いずれも予想されたものではなく偶発的なものである。与え手から一方的に受け手に向かっていく贈与。想定外のことが起きるリスクは十分にある(かぐや姫が逃げ出すこと、成長が止まること等々)が、与え手は受け手に一方的に希望的に信頼を寄せている。一方的に何かを託していると見ることもできる。翻って、都合が悪くなったら、いつでも放棄する余地がある。この点で無責任でもある。

 ②を見ていく。かぐや姫と求婚者。双方が条件を満たせば成立する交換である。求婚者がモノを間違いなく持ってくれば、かぐや姫と結婚できる。かぐや姫は、提示した通りのモノを持ってこない限りは結婚しなくてよい。双方にとっての想定外が起こることは考えにくい。与え手と受け手は合意したルールの上で、双方が必ず予定した見返りを得られる対等な関係である。物語では、求婚者たちが一向に条件を満たさないために、交換が成立しない。

 続いて③の関係を見てみよう。一見①に近いようにも見える。しかし、月へ帰るかぐや姫を引き留めて引き受ける行為は、永続的に何があっても関係を続けるという覚悟が必要になる。この先かぐや姫が思った通りに成長しなかったら、①の状態であれば竹林に戻って捨て置くこともできたであろう。しかし、今回はそうはいかない。どんな想定外が発生してもお互いにそれを背負う覚悟のもとで結ばれる関係。見返りは、関係の継続そのものであり、相互に作り上げていくものでもある。双方が与え手であり、受け手でもある。相互生成的な関係である。

 私たち人間はこの世界に生まれ落ちてからというもの、先人たちが育んできた環境を享受しつつ、まずは相互生成的な関係(③)のなかで育つ。成長に伴い偶発的かつ無責任な親切(①)に助けられ、交換(②)のもとで社会生活を営むようになる。労働などはまさに②と言える。そして、いつか相互生成的な関係を再生産していく(必ずしも家族の再生産だけでもない。技術の再生産や人材の再生産なども含みたい)。

 近代的な個人の理想像は、いつも①や③を忘れさせる。そして、自分と他人は違う!他人の領分は犯すべきではない!自分の力だけで生きていくべき!と規範を迫る。

 私たちには、真面目に働いて稼ぐ労働者でもあれば、後輩におごる先輩でもある。見知らぬ老人に席を譲ることだってあるし。子どもの笑顔に癒され喜んでおむつを替えることもある。私たち一人ひとりの中にも、いろいろな可能性がある。与え手になることも受け手になることも、どちらでもない関係を結ぶこともある。同じように周りの人にもいろいろな可能性がある。さらに、先人たちから贈られた環境の享受者としてだけはみな平等である。

 かぐや姫は「年をとることもなく悩みごとのない」月に帰りたくないと嘆くものの、最終的に月人たちに捕らえられ「きたなきところ」である地上の記憶を消されて行ってしまう。月の生活はどのようなものだろうか。
それぞれの個人の違いを認め合うが、完全に距離を置く世界?
ルールを守って干渉しあわない世界?(何だかどこかで見たような分断?)
人々が自他の違いを認識しない世界?あるいは、感情が動くようなことがない世界?

 うーん、いかがなものか。先人の言った通り「私たちの持っているもので人から借りていないものはない」。そして、私たちは、必ずいつかは何も持たずにこの世から旅立つ。せっかくなら「おかげさま」「ありがとう」「たすけて」を使い分けながら、涙と笑いを再生産しつつ、ゆけないものか。ときに、偶発や無責任に遊んだっていいのだ!

参考文献
・竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
・手の倫理 (講談社選書メチエ)– 2020/10/9伊藤 亜紗


分け前と過剰と赦し

加藤めぐみ
福永令三『クレヨン王国 水色の魔界』


 物語と贈与を考える題材として、福永令三の「クレヨン王国」シリーズから『水色の魔界』を取り上げる。福永が「地球主義」を訴えるために何十冊も書き継いだ同シリーズは、小学生向けでありながらも、強いメッセージ性を持っている。

 『水色の魔界』は、怒りをテーマにした物語として読むことができる。本作の言葉を借りれば「水と同じように、形がかわっても循環してながれていく」怒りをいかにすべきか、という問いである。もう一つの大きなテーマについては後述する。

 主人公のカッちゃんは心優しい少年だが、些細なことでカッとなりやすく、周囲とうまくいかないことが多い。絵を描くことが好きな彼の「12色のクレヨン」たちが、主の怒りっぽい性質を心配するところから物語は動き出す。カッちゃんのいる人間界とは別に、クレヨン王国という場所があり、王国の片隅には魔界がある、という世界観のみ押さえておいていただきたい。カッちゃんが11歳の誕生日を迎えた頃、水色クレヨンが「彼の怒りのエネルギーを運び出して魔界に捨ててくる」という奇策を思いつき、それを実行した。カッちゃんは穏やかになったものの、人間界と魔界の間に回路を開いてしまったことが、後に彼を怖ろしい体験に引き込むことになる。

 もう一つのテーマは、シリーズに通底する「地球主義」である。本作では、人類の長年にわたる横暴に対し、ついに自然が牙を向いたという筋書きとして現れる。「お前ら人間が、すべての命を資源と称して勝手に管理し、なぶり殺しにしていくのを見て、われわれの忍耐も限度にきた。われわれも、お前たちと同じように、目には目を、歯には歯をで、怒るしかないところまで追い詰められた。われわれは、本気で復讐する」。

 クレヨン王国の水色の魔界には、人間に恨みを持つ魚の霊が集った。ここで、水色クレヨンが開いてしまった回路が、カッちゃんと魔界をつなげてしまう。学習塾に向かうつもりが、彼はいつのまにか秘境ツアーに向かうという団体列車に乗り合わせていた。大勢の大人とカッちゃんを乗せて列車が向かった先は「水色の魔界」、魚霊の支配する世界だった。魚霊たちは、自然からの贈与の域を超えて自然を収奪した人類に、返済を求める。目には目を、歯には歯を、等価交換を。

 真実を明かされる直前、秘境ツアーのイベントとして、一円玉のつかみ取りが開催されていた。後に正体を現した魚(故郷の池を埋め立てられ、同胞をなぶり殺しにされた大ゴイが復讐の首謀者という設定である)は、つかみ取りした一円玉の数に従って、七人だけを無事に帰すと約束する。3000ダカットよりも遥かに軽い命の値段。福永は明記していないが、恐らくは魚一匹の値段が想定されているのだろう。案の定、一円玉の争奪戦が始まった。やがて人々は、他人に一円玉を奪われないよう、強力な糊で皮膚に貼りつけ、全身アルマジロのようになって霧の中を行進していった。

 しかし、それこそが魚の企みであった。死んだ魚が豪雨のように降り注ぐ。恨みの死魚が一円玉に触れるたび、一円玉は卵を産んで増殖し、人々は頭のてっぺんから足の裏まで一円玉の鱗に覆われてしまった。これが利子の、あるいは資本のメタファーだとすれば、福永の皮肉に身震いするほかない。鱗に覆われた人間たちには、魚として人間界へ戻される運命が近づいていた。

 カッちゃんのクレヨンたちは奔走し、額に貼ること人間界に戻ることのできる護符を手に入れ、彼を救うために魔界に乗り込んだ。カッちゃんは運良く一円玉を持たず(正確には、大ゴイの身の上を聞いている間に、強欲な女性にだまし取られ)、魚になる運命をひとり免れていた。しかし、カッちゃんはクレヨンから受け取った護符を、ナマズ(大ゴイの部下)に渡してしまう。ここで具体的に贈与されているのは護符であるが、それはカッちゃんの自己犠牲と同義であり、『水色の魔界』で最も印象的な贈与のシーンといえるだろう。連想されるのはジョバンニの「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という台詞であるが、ただしカッちゃんのそれは「みんなの幸い」を目指すものではなく、ほとんど無意識の、人間を代表した贖罪の行為であった。

 「ありがとう。俺よりも、いちばん苦しいこの大将に」。ナマズが大ゴイの額に護符を貼りつけると、大音響が轟いて、カッちゃんの眼前からすべてが消滅した。

 "登場人物の気高き精神と裏腹に、物語は報恩を課してしまう"。贈与のナラトロジー(#4-1)で指摘された法則は『水色の魔界』にも働き、カッちゃんを含む人間たちは人間界に戻ることができた。その機序は詳述されておらず、われわれ読者は何が起こったのかを推測するほかない。おそらく、件の護符が持っていた「魔界から戻れる」という効能は、魔界そのものともいえる魚霊にも適用され、増幅しつづける怒りと恨みの連環から彼らを救い出したのではないだろうか。そして、魔界そのものが一時的にも消滅したゆえに、人間たちはそこから解放された、と考えれば筋は通る。

 カッちゃんの、文字どおり全身全霊の贈与は、しかし、人類の長きにわたる収奪とは釣り合わない。読者は心のどこかでそのことに気づいている。自然は、自然の一部としての人間にも「分け前」を与えてくれるが、われわれは分け前以上のものを奪い続けている。この物語で驚くべきは、そこにわずかに生じた贖罪の行為、わずかにまっとうな関係を結ぼうとしたカッちゃんの行為を、未だ奪われ続ける自然が受け入れたことではないだろうか。

 「クレヨン王国」シリーズは、繰り返し人間の愚かさを説くが、同じだけ繰り返し、自然の赦しを語る。赦しとは、往還する贈与の関係を(再び)受け入れること、結ばれた関係の未来を信じようとすることである。そして、未来を作る力を持つのは、その場限りで清算される交換ではなく、不均衡を揺らしながら進んでゆく贈与なのではないか。贈与のナラトロジーについて、私はそのように考えてゆきたい。


まれびとが引き出す余剰

鈴木悠平
『ストーンスープ』

今回の卒論では、「ストーンスープ」の寓話を取り上げる。

貧しい身なりの旅人が小さな村にやってきて、食べ物を乞うが、村人には冷たくあしらわれてしまう。一計を案じた旅人は、「ストーンスープをつくるので、鍋と水だけでも貸してほしい」と言って、村の広場の中央で火を起こし、石と水だけの鍋を温めはじめる。

温まったストーンスープ(石の入ったただのお湯である)を味見して、「悪くない。ここに○○があればもう少し美味しくなるのだがな」とつぶやく(○○の中身は、塩だったり、人参あったり、玉ねぎだったり、さまざまな鍋の具材)。

「ストーンスープ」なんて聞いたこともない料理だ。いったいどんなものだろう。家の中から旅人の様子を伺っていた村人たちは、旅人のつぶやきに応じて家の中から手持ちの具材を次々と提供する。そうして鍋がたくさんの具材で溢れ出したころに「よし、完成だ」と旅人はしれっと宣言。旅人も村の人たちもお腹いっぱいになるまでスープを味わった、という寓話である。

―――

物語の始まりでも、旅人はストレートに物乞いを、つまり食料の「贈与」をお願いしているが、怪しいヨソモノに贈与するような食料はない、と村落共同体からの拒絶を食らってしまう。結末を見ればわかるように、旅人は贈与を引き出すことに成功している。それも当初以上の規模の贈与(村中で分け合ってもお腹いっぱいになるぐらいの)を。

・「ストーンスープ」という、よく分からない料理をつくり始める、というエンタメ導入による興味関心の引き出し
・「ストーンスープをつくるための材料だから」という建前による、贈与ハードルの引き下げ(村人自身も気になっていて、食べてみたいから、単なる施しではなく材料提供による共同制作という、言い訳ができる)
などが、旅人の作戦には盛り込まれていて、とても賢い手段である。

それだけでなく、
・物乞いする人・される人という2者間ではなく、村全体へのコミュニケーションの拡張
・村全体で分け合っても余るぐらいの大量のスープ
という、「2者による等価交換→コミュニティ内での循環へ」「余剰・過剰さのあらわれ」なども非常に贈与的だ。

寓話の中では、普段の村の暮らしや人間関係は詳しく言及されていないが、冒頭の冷たい対応を見るに、それほど豊かではなく、ヨソモノへの不信感が強いことから、「みんなでスープをつくって分け合う」というようなことは、あまりなされていなかったのではないかと予想する。

コミュニティの外部から来訪した「まれびと」がきっかけとなって、コミュニティに新しい風が吹き込み、自他の境界がほころんで開けていく。実は一番の贈与は、この旅人が村にやってきたということなのかもしれない。


シェアハウスの贈与構造

市村彩
松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

T君
この本を読んだ時に、「交換モードは感情をできるだけ排除して、自己利益を一つの価値基準として考えた時に出ててくる現象だ」と説明されていて、個人的にスッキリした。
例えばシェアハウスでの問題に食器放置問題があるけど、交換モードで自己利益の物差しが入ってしまうと、自己利益を優先しすぎるがあまり、人任せにしてもいいやという現象が生まれるのではと思う。

Eさん
そもそも交換モードでシェアハウスに住めないよね。本来は気づいたらやる、ってするのがいいよね。

T君
昔は掃除をしない人に対して罰則があって、すごく交換的に感じて、シェアハウスでやる意味ってあるのかな、と。贈与の感情がなくなってしまう。

Yさん
私が入居して罰則制度に対して思ったのは、そもそも同じだけの労働を住人全員に課す必要があるのかというところ。
この家に住んでいる以上何かしらの貢献はすべきだけど、粒度はバラバラで良くて、家のために自分のできる範囲・自分の得意な範囲で交換すればいいんじゃないかと思っていて。
それで罰則をやめて、それまで週ごとに変わっていた掃除場所を固定にした。
そしたらトイレが汚かったら担当の人に「最近トイレ掃除サボってるんじゃない、あなたが自分でそれをやるって決めたのにできてないんじゃない?」って言える。もし負担が大きいなら別の方法を考えて、トイレ掃除は他の誰かにお願いすればいい。今は一旦、こういう形をとってる。
これが贈与なのか交換なのか聞いてみたいと思ったんだけど。

Iさん
贈与の側面が大きいと思う。逆に罰則は交換的。交換モードってすごく平等なんだけど個性は無視してる。腰痛持ちなのに、そこに平等を持ち出してトイレ掃除しなさいは違うかなと思う。うちにはもはや掃除制度もないんだけど、それはそれぞれが掃除っていうのも超えて、それぞれの個性で家に対する貢献をしてるよねっていうのをみんなの認識としているから。

シェアハウスと後ろめたさと暴力性

Iさん
掃除制度がないと、掃除で誰かがきれいにしてくれてるなって感じた時に後ろめたさを覚えて「やばい、最近全然掃除してない」って思って、気づいた時にお風呂を磨く、みたいなことをしていて。私がその感覚を最低限持つようにしている。でも入居した時は全然何も感じなかった(笑)贈与モードになるには感覚をもつ、後ろめたさを戻すみたいなことが書かれていたけど、自分も取り戻したのかもしれない。

Eさん
私は贈与モードの時に、後ろめたさよりも好きで動いた方が続くと思って。私がなんで掃除するかって言ったら、このコミュニティが好きだしこの家が落ち着けると思うから。好きだから尽くしたいと思う。自分の友達に対して、好きだから笑顔になってほしいって思うのと一緒。別に自分が何をやったってカウントする必要もなく、例えば人が食べた洗い物を誰が食べたかわかんないけど私が洗っても、私はみんなからいろんなものを教えてもらってると思うんです。毎回みんなにありがとうって言えないかもしれないけど、間接的にその人が食べた物を洗うことでお礼ができるかなと思ってやる。後ろめたさも確かに大切かもしれないけど、個人的には好きベースで物事が進むといいなって思うんですよね。

S君
動機が違うわけじゃなくて言葉のニュアンスの違いな気がするけどな。

T君
アオイエが好きだから積極的に家事をやって、その人自体は好きでやってるんだけど、周りが後ろめたさを感じることはありうる。

Eさん
それが贈与か、受けた方は断れないもんね。

S君
贈与ってかなり暴力的だね。

Iさん
本当にそれ。今贈与の勉強してるんだけど、やってるとどんどん交換について勉強したくなってきて、2周くらい回ってやっぱ交換良くね?みたいな(笑)エチオピアの例にもあったけど、贈与の関係って暴力を受け続けることであって、すごくストレスにもなる。バランスを考えたいよね。

#006 バレンタインデーと贈る・贈られるよろこび

このブログでは共同贈与コミュニティ「新しい贈与論」から、
コミュニティ内で交わされた対話の断片をお伝えします。

 2月14日。バレンタインデー。毎年この日になると、街中がそわそわし、それぞれの甘酸っぱい思い出に胸を馳せる。チョコを贈り合う形で日本では習慣となったバレンタインの歴史は遡ること西暦270年2月14日。ローマ皇帝クラウディウスが、遠征を目指す兵士との結婚を禁じたことに対して反対した、バレンタイン(ウァレンティノス)司祭が処刑された日と、この季節に木々が芽吹き小鳥が発情することとが結合した風習といわれる。

 初めは親子が愛の教訓と感謝を書き記したカードを交換する習慣だったようだが、20世紀になって、男女が愛を告白して贈り物をしたり、とくに女性が男性に愛を告白する唯一の日とされるようになった。

 日本では1932年に神戸のチョコレートショップ「モロゾフ」の創業者が「欧米では2月14日に愛する人に贈りものをする」という習慣を米国人の友人から聞き、日本でも広めたいと考えた。同年にモロゾフはバレンタインにチョコレートを贈るというスタイルを紹介したが発展せず、一方関東で1959年、東京の洋菓子商「メリーチョコレートカムパニー」が、ハート型のチョコレートに鉄筆でTOとFROMを描き、贈り手と相手の名前を入れるサインチョコレートを発売したところ、斬新なアイディアが注目を集め、女性から男性にチョコレートを行うスタイルが定着し、今日まで継続している。

1959年に考案されたハート型のチョコレートが日本での普及のきっかけに

 コミュニティのメンバーにバレンタインの思い出を聞くと、チョコレート(プレゼント)を「贈る側」と「受け取る側」で様々な声があることがわかった。

  • 友達と一緒にチョコレートをつくって好きな男子に一緒にあげにいった、そのイベントが楽しかった&相手に気持ちを伝えるトライができてよかった

  • 職場の課で女性が男性にあげるということをしばらくしていて、ホワイトデーのお返しももらい、いつもにないコミュニケーションも生まれて面白かった

  • 思春期にチョコをもらうことができなかった

  • アメリカに住んでいた時は、日本のクリスマスイブのように「男性が彼女のためにめちゃくちゃ準備しなきゃいけない日なので大変」と現地の男性の友人が言ってた

 昨今では本命チョコに始まり、義理チョコ・友チョコ・職場での付き合いのためのチョコなど、周囲に気を使ってチョコを渡す機会も増えており、バレンタインに対して否定的な声を聞くことも少なく無い。一方で、大切な人や普段だとなかなか感謝を伝えられない人へ想いを伝えるために、バレンタインデーにチョコをあげている人からは贈るよろこびが感じられるとの意見も出た。

 
 

ゴディバジャパンが日経新聞に2018年2月1日に掲載した
「義理チョコをやめよう」と言う広告は、大きな話題にもなった

 バレンタインという文化に対しては賛成か、反対という問いに対しても、多様な意見があがった。

  • 直接的な気持ちを目に見える形で表現する文化があまりない日本においては、バレンタインは良いきっかけ

  • 一方で本来自発的でよかったものが義務的になって困る人もたくさんいることを世間の論調から感じる

  • バレンタインは一つのコミュニケーションのきっかけとなる

  • バレンタインの強要は違うが、好きを表明することは周囲に迷惑をかけないの程度の範囲で、妨げなくてもよいのでは

 バレンタンデーという文化をより抽象的に考えてみると、贈る人が受け取る人への感謝や愛を伝える機会と捉えることもできるかもしれない。その点で父の日や母の日、お年玉などその他の贈る文化と本質的には同じものと言うこともできうるだろう。一方で、バレンタインが持つ特殊性もある。それは本命チョコ・義理チョコ・友チョコなど様々な関係性の中で気持ちを伝え合う手段の総称であることであり、そのために様々な関係性の中でチョコレートを贈り合わなければならない、と言うある種の強制力や同調圧力がかかりうる危険性がある。バレンタインが内包する関係の多様性を楽しみつつ、チョコレートを贈り合うと言うのはバランス感覚が必要なのかもしれない。

 世界に目を向けてみると、「大切な人に感謝や愛を伝える」という根底の思想は同じでありながらも、バレンタインの様式は様々である。欧米やアジア諸国では男性が女性にバラを、フィンランドでは「友達の日」としてチューリップを友達に贈る。イギリスでは想いを寄せる人にひそかに想いを伝える日として、当日はメッセージカードを贈るけれども、差し出し人の名前は書かず、カードを受け取った方から返事をしてもらう。筆者個人としてはイギリスの事例などは遊び心があって、かつ忘れられない思い出になると言う意味でお気に入りである。

 日本でもチョコを贈り合うバレンタインの文化が根付いてから50年以上が経過している。時代の変化と共に、バレンタインに対する懐疑的な意見も生まれて来ているが、改めて今回バレンタインについてじっくり考えると、想いを伝えることのできる年に一度の貴重な機会とも捉えられた。この文化を続けていくためにも、今から日本にバレンタインの文化をもう一度流行らせるとしたらどんなバレンタインにするかを考えてみるのも面白いだろう。


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堤春乃

 クラウドファンディングサービスを運営するREADYFORに勤務中。挑戦する人を支える共感をベースとしたお金の流れをつくりたい。関心領域はサステナビリティ 、SDGsなど。幼少期から続けている合唱ではソプラノを歌っている。食べることがとにかく好き。


#005 ボランティアは贈与か搾取か

このブログでは共同贈与コミュニティ「新しい贈与論」から、
コミュニティ内で交わされた対話の断片をお伝えします。

 ボランティアとは、自己の労働力の贈与である。対価としての金銭を得るのではなく、やりがいや貴重な経験を得ることができる。今夏行われる予定の東京オリンピックでは、8万人という大規模なボランティアを募集していた。炎天下の労働で日給1,000円という薄給さに「やりがい搾取だ」という批判もあるが、ボランティア希望者が満足する経験を得られると考えれば、立派にボランティアの関係性は成り立っている。厚生労働省の調査では、行政やボランティアセンターなどで把握しているボランティア活動者数は707万人(平成29年)いるとされているが、総務省の調査では、「ボランティア活動」の行動者数は約2,943万人(平成28年)いるとされており、日本の最大23%の人が1年に1度以上ボランティア活動に参加していることになる。

「平成28年社会生活基本調査結果」(総務省統計局)より

「平成28年社会生活基本調査結果」(総務省統計局)より

 2001年にボランティア活動推進国際協議会(IAVE)によって発行された「世界ボランティア宣言」では、以下のように述べられている。

世界のすべての人々は、経済的な見返りを期待することなく、個人的、集団的行動を通じて、時間と才能とエネルギーを他人や地域社会に自由に提供する権利を有するべきである。

 ボランティアは自らの意思によって社会貢献を行い、その過程でかけがえのない経験を得られる活動とされている。ただ広義には「落ちているゴミを拾う」のような身近な例もあれば、「友人の会社を無料でコンサルする」のような副業に近い活動も含まれるだろう。

 コミュニティでは、実際にボランティアに参加した人の内容や動機が話題となった。

  • 災害ボランティアに参加しました。きっかけは、たまたま会っていた知人がその足で現地に行くというので同行しました。偶然です

  • 地域の清掃活動や、小学生のプログラミング学習サポートをしました。そうした募集が地域コミュニティや知人経由であったからで、実際には誰かがやらないと立ち行かない... という状況が多かったので、仕方ないからやるという意識が強かったですね

  • 小中学生の時に地域の清掃はしてましたが、自主的というより強制的にやらされていた感があります

 きっかけは様々だが、地縁や知人が動機となって参加するものが多い印象がある。しかし、誰かがやらざるを得ない状況であったり、地域の目が気になるので参加せざるを得なかったりと、自主性という点が曖昧な活動も多いようだった。自分も振り返ってみれば、地域の資源ごみ収集のお手伝いを行ったことがあるが、所属している野球部全員が参加必須だったので、自主的な活動ではなかったと思い出した。ボランティア宣言の掲げる理想からは、幾分乖離があるのが実態のようだ。

 またボランティアが無償であることについては、以下のようにさまざまな意見があがった。

  • 賃金を介さない分、お互いに求めるものにズレが生じやすいのかなと思いました。ただ、ボランティアをする側としては、労働に対する等価交換でないことの心地よさみたいなものもある気がします

  • やりたいことと経済的報酬と社会的意義が合致してるケースは非常に少ない気がしてて、その意味ではボランタリーで何かをすることで、自己のアイデンティティを保ったり、社会の中の存在意義を確認できると言うことはありそうですね

  • やりがいを優先し無償や安給で働き続けた結果、経済的に困窮したのですが、ちゃんと収益考えるようにしたら、かえって好きな仕事が選べるようになった

  • 私自身はお金をもらうなら、それなりにと負荷に思ってしまうので、無給がうれしいです

  • 無償でもやりたいことより有償でも絶対にやりたくないことの方が多い気がします

 多くの仕事は有償であるがゆえに、一定の能力水準や果たすべき責任・貢献が求められ、業務領域も限定されることが多い。一方で、無償であれば気持ちや責任の面において、気楽に行うことができるのだろう。目的が金銭なのか得られる経験なのかによって、同じ仕事でも捉え方が変わるのは面白く、主目的が金銭でなかったとしても、結果的に収益がついてくることも往々にして起こりうる。

 最近では、プロボノやインターンなど、ボランティアとの境目が曖昧な概念も多く存在する。もし悪意のある事業者がいたとしたら、情報格差や情動的共感を利用して、「ボランティア」という名目のもと最低賃金以下で労働させる「搾取」を行う可能性も秘めている。それが国家レベルとなれば、戦時中を彷彿とさせる「動員」にもなりかねない。ボランティアは元来幅が広い言葉であるが、それだけに野放しに使われてしまう危険性も認識しなければならない。

 コミュニティメンバーからは「“ボランティア” という言葉に色がついちゃっているので、もし該当したとしても無意識にさけてしまう」という意見もあった。ボランティアはラテン語のボランタスvoluntās(自由意志)を語源としており、強制や義務とは真逆の性質を持つ言葉である。東京オリンピックのボランティアも、経験や喜びを求めて自発的に参加し、くれぐれも「搾取」や「動員」とならないようなボランティア活動になることを期待している。


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中垣智晴

 webサービスを運営するベンチャー企業に勤務中。並行して、Artist in Residenceの運営などを行なっている。地域づくりに興味があり、大学時代は鳥取と島根を中心に視察の日々。将来は地域の廃校をリノベーションして、塾とゲストハウスをやりたい。アートと日本酒とクラフトビールが好き。ギターを片手に放浪したい。


#004 カタログ化するふるさと

このブログでは共同贈与コミュニティ「新しい贈与論」から、
コミュニティ内で交わされた対話の断片をお伝えします。

ー「ふるさと納税」論議は、平成19年5月の総務大臣の問題提起から始まった。多くの国民が、地方のふるさとで生まれ、教育を受け、育ち、進学や就職を機に都会に出て、そこで納税する。その結果、都会の地方団体は税収を得るが、彼らを育んだ「ふるさと」の地方団体には税収はない。そこで、今は都会に住んでいても、自分を育んでくれた「ふるさと」に、自分の意思で、いくらかでも納税できる制度があっても良いのではないか、という問題提起である。ー(総務省 平成19年ふるさと納税研究会)

 ふるさと納税は上のような問題提起に端を発し、2008年5月より制度が開始された。その根幹の理念としては次の”3つの大きな意義”をあげている。

  • 第一に、納税者が寄附先を選択する制度であり、選択するからこそ、その使われ方を考えるきっかけとなる制度であること。 それは、税に対する意識が高まり、納税の大切さを自分ごととしてとらえる貴重な機会になります。

  • 第二に、生まれ故郷はもちろん、お世話になった地域に、これから応援したい地域へも力になれる制度であること。 それは、人を育て、自然を守る、地方の環境を育む支援になります。

  • 第三に、自治体が国民に取組をアピールすることでふるさと納税を呼びかけ、自治体間の競争が進むこと。 それは、選んでもらうに相応しい、地域のあり方をあらためて考えるきっかけへとつながります。(総務省ふるさと納税ポータルサイト)

 ふるさと納税の制度開始からおよそ10年が経ち、寄付金額も下のように年々上昇傾向にある。

(総務省 令和元年度ふるさと納税に関する現況調査について より)

(総務省 令和元年度ふるさと納税に関する現況調査について より)

 しかしこの盛り上がりとともに返礼品の過激な競争なども起こり、2019年6月には制度一部改正にまで至っている。主な内容は以下の通り。

①寄付に対する返礼割合は3割以下
②返礼品は地元の産品に限る
③総務大臣の指定を受けた自治体のみが控除対象となる

 控除や返礼ばかりに気が向きがちなふるさと納税であるが、今一度“地域への寄付“と改めて捉え直してみたい。

  コミュニティメンバーにふるさと納税をしたことがあるかないか、を聞いたところ、およそ6割強のメンバーが「したことがある」、4割弱のメンバーが「したことがない」とのことだった。

 制度に懐疑的な意見として

  • 税金をどうこうというより買い物というイメージの方が強いのであえてそこで買おうとしたことがない

  • 「返礼品」でしか競争できないとなると、特産のある地域とない地域で格差が発生しやすく、フェアではないし、非効率かなぁと感じます

  • そもそも納税の一部を返礼品として返すという行為がバラマキであり、自分が住むエリアのインフラや教育、福祉などに使われず他エリアに移転していくのは非常に良くない

  • そんなに物欲も節税意識も高くないので、個人的なメリットより「めんどくさい」が勝ります。事務処理苦手マン

などの意見があった。事務処理が煩雑という指摘は、確かにそうだと感じた。節税や返礼品、寄付に関心がある方は制度を利用するだろうが、国民の大半はそれほど興味がないだろうと思う。その方達が少しだけ興味を持ったところで最初に挫折するのが事務手続き関連であろう。

 調べたところ、確定申告の必要のない方はワンストップ特例制度というものが利用できるらしい。税、年金、社会保険等の電子化が今後さらに進めば、ふるさと納税のハードルも下がり、二の足を踏んでいた人たちも参加するようになっていくのではないだろうか。

 次に好意的な意見を紹介する。

  • 収めた税の使いみちを指定できるという点は素晴らしい

  • シティズンシップ教育の必要性や意義は感じます。

  • 対象に限りますが地方交付税の補填も含め、ふるさとの納税によって税収の適切な分配には近づいてるんじゃないかと思っています。

  • その土地を詳細に知ったり関心を持ったりするキッカケになったりした気がします

などといった、3つの意義の1つ目の効果、また不均衡の解消につながっているのではとの声も上がった。

  私としても納税先を自分の意思で決められることは非常によい機会であると感じている。近年SNSを中心に「若者も選挙に行こう!」という流れが形成されているのを感じるが、ふるさと納税に関しても同様に、民主主義社会への参加という面から盛り上がっていけたらと思う。中央集権的に税が吸い取られ知らぬ所で使途が決められるより、「〇〇市、頑張ってね」といった形で、個々人の意思に基づいてフランクに寄付が行われる社会になったら面白いだろう。

 今回の議論の中では、いかに意義を伝えていけるかと言った議論も見られた。その一工夫として「"ローカルエディター"によって地域の生活を発信し、関心を起こさせるのはどうか」という案も出た。ふるさと納税の制度と並行して別事業でこのような取り組みが行われると、よい循環が生まれるのではないか。発信によって情報として地域を知り、返礼品によってモノとしての実体を感じてなお関心が深まっていく、といったように。議論全体として、制度そのものを否定するのではなくどうすれば制度・地方自治体に関心が集まるだろうというかという議論が起こっていたように思う。

 ふるさと納税制度がもたらす効果について、私が最も重要なのは「関心を刺激する」ことであると思う。はじめのきっかけが節税であっても、もちろんいい。返礼品を選ぶときにいろいろな自治体があることを知り、その特色を知り、遠いのか近いのかが少し気になってくる。そういった小さな関心が各人の中に蓄積されていけば、どこかの町の財政破綻や、どこかの村の大災害が他人事では無くなってくるかもしれない。

 都市への一極集中化がさらに進み、そこにしか関心が寄せられない国になってしまえば、個性的な地方は人知れず衰退し、多様性も冗長性も何もない味気ない国になってしまう。そうした無関心への流れを変える一方策としても、ふるさと納税は機能していくのではないだろうか。


AUTHOR

Soma OKAMURA

岡村壮真

 大学卒業後、1年間建設コンサルタント会社にて勤務。その後退職し、大学院に進学。研究室において公園の設計やコミュニティに関する研究を行う。音楽と料理をこよなく愛するストリートダンサー。趣味はカレー作りと小屋作り。特技は人の話をよく聞くこと。


#002 災害募金と見慣れた惨状

このブログでは共同贈与コミュニティ「新しい贈与論」から、
コミュニティ内で交わされた対話の断片をお伝えします。

Author: 桂大介

 第二回の対話テーマとなった「災害募金」は、コミュニティメンバーのほとんどが経験していた。その形態もさまざまで日本赤十字に寄付をしたという人もいれば、CAMPFIREやREADYFORを利用したという人もいたし、募金箱を使ったという人もいた。幾人かはそれが習慣となっているようで、ある程度の災害となれば毎回寄付を行っているようだった。

 前提として、災害募金は大きく4つに分けることができる。台風19号を例に解説する。

  1. 日本赤十字社または共同募金への寄付

  2. 自治体へのふるさと納税または寄付

  3. 支援NPO/NGOへの寄付

  4. その他民間の基金や法人を経由した寄付

 上記のうち1と2は義捐金(義援金)と呼ばれ、被災者に渡されるお金となる。これらは義援金配分委員会という機関を通し、被害状況に応じて配分される。税制優遇があるのはもちろん、2の場合にはふるさと納税制度が利用できる。今回もふるさとチョイスさとふるといったふるさと納税ポータルが特設ページを開いており、また手数料の受け取りを辞退している。実質負担2000円のみで数万円の寄付ができるとあって(それを寄付と呼ぶかはさておき)、一定の人気を得ている。これに対しコミュニティでは「25%のお肉をもらえるはずだった分は”寄付”してる」という見方もあった。

 3はCivic Forcepeace windsといった非営利団体が災害支援活動を行なうための費用となる。お金は被災者に直接渡されるわけではないが、ガレキ撤去や支援物資の配布など間接的に被災者を助ける手立てとなる。こちらは義捐金と区別して支援金と呼ぶのが慣例となっている。税制優遇については寄付先の団体によって異なり、寄付先が認定NPOや公益財団といった公益性の高い法人格をもっている場合のみ税制優遇がなされる。クラウドファンディングサービスのREADYFORではクラウドファンディングと銘打ちながらも、こうした団体を選んで寄付する形をとったため、税制優遇措置が受けられるようになっている。

 
READYFORでは宛先を選んで寄付を行なう

READYFORでは宛先を選んで寄付を行なう

 

 4はYahoo!募金CAMPFIREコンビニ募金などが該当する。概ね義捐金となることが多いようだが、支援金となる場合もあり、募集団体によって異なる。他と大きく異なるのは税制優遇措置がないことで、ここには注意する必要がある。一方で例えばYahoo!募金は今回3000万円のマッチング寄付を用意しており、最大3000万円までのあいだ、寄付金と同じ額をYahoo!が上乗せして寄付を行なった。CAMPFIREは手数料の一切をCEO家入一真氏が負担し上乗せ支援することを発表した。Tポイントを始めとする各種ポイントが使えることもあり、こうした仕組みは民間を通した支援ならではだ。

 コミュニティの議論では災害寄付について、資金の使途やトレーサビリティが話題に上った。被災者からの感謝の言葉までは求めないにせよ、渡したお金がどのように使われるのか気にする寄付者が多かった。団体の選定はまちまちだったが、具体的に日本赤十字社の名前があがった他、「信頼できるNPO」「NPOなどで、団体運営の歴史や用途の説明など、信頼性高そうなところ」という声があがるなど、やはり信頼性が重視されていた。信頼性の重視は、災害募金においてとりわけ重要視されているようだった。その他クラウドファンディングを利用した者も多くいた。

 ふるさと納税を検討した者もいたが、被災地の写真を前に、どこか一つを選ぶことができなかったそうだ。

 
「さとふる」では写真で被災状況が見えるようになっているが…

「さとふる」では写真で被災状況が見えるようになっているが…

 

 災害募金は緊急時贈与(EMERGENCY GRANTS)の一種であり、悲劇性と可視性に連動するという特徴がある。ふるさと納税サイトはまさにこうした特性を十分に活用して、寄付を集めているように見える。目を覆いたくなるような被災地の画を目の当たりにし、何か自分にできることはないかと寄付を行なう。それ自体は当然責められる行為ではない。

 しかし、ノートルダム大聖堂の火災へ巨額の寄付が集まったとき、イエロージャケット運動からいっそう抗議の声があがったのは記憶に新しい。衆目を集める惨劇の裏には、つねに見慣れてしまった惨状がある。いかなる贈与を行なうべきか。新しい贈与論は模索を続けたい。


#003 寄付としての宝くじ

このブログでは共同贈与コミュニティ「新しい贈与論」から、
コミュニティ内で交わされた対話の断片をお伝えします。

Author: 桂大介

 宝くじと贈与は一見無関係に見えるかもしれない。しかし、宝くじを購入する多くの人は宝くじの期待値が100%に届かないどころか相当に低いことを知っており、つまり宝くじの購入は財産の喪失を必然的に抱えている。実のところ還元率や手数料は下図のようになっており、実に38.1%が地方自治体の収入、言い方を変えれば、地方自治体への寄付となっている。この額は全国で約3000億円にも上り、たとえば東京都は平成30年に474億円(内20億円は当選金の失効益!)の収入を得ている。

 
宝くじ公式サイトでは使いみちの広報に力をいれている

宝くじ公式サイトでは使いみちの広報に力をいれている

 

 上の図に見られる還元率47%/手数料14%/控除率39%というバランスは、見方を変えればふるさと納税に似ている。返礼上限が設定された現在、ふるさと納税は還元率30%/手数料10%/控除率60%といったところだろう。過剰な税制優遇が実態を覆い隠しているものの、その仕組み自体において、宝くじとふるさと納税は大差がない。宝くじを規定する法律である当せん金付証票法が第一条に「地方財政資金の調達に資することを目的とする」と定めているように、これは成り立ちからして税収のために作られた仕組みであり、宝くじは「当たれば儲かる、外れれば寄付になる」という娯楽付き納税システムの一種といえるだろう。

 コミュニティ内で「宝くじの収益が地方自治体への寄付として使われていることを意識されたことがありますか?」と聞いてみたところ、以下のような声があがった。

  • 地方自治体への寄付という意識はなかった。宝くじ号とついた車などは見かけるので日赤などへはイメージありました。

  • 子供のころ通ってた陶芸教室に併設してた登り窯に、宝くじの助成という看板がかかってました

  • 全然意識したことなかった

  • 知識としては知っていました

  • 意識していませんでした…。この事実をもっと広めれば、買う人増えそうだなと思います。

  • 財の再分配として効率が良いのかはよくわからないのですが、そのあたりも啓蒙してくれれば意識は変わりそう

 大半の人は知らないか、知っていてもそういった意識で宝くじを購入していなかった。また啓蒙することで購入が増えるだろうという意見も出た。同様の考えは自治体側にもあるのか、寄付の側面を押し出した宝くじはしばしば発売されており、今夏は東京五輪に向けた東京2020大会協賛くじが発売されている。

 日赤や登り窯の件は前掲した円グラフで「社会貢献広報費」となっているもので、主に一般財団法人日本宝くじ協会を通じて日赤、公園財団、交通安全協会、消防協会などさまざまな団体に助成金として流れている。この助成金は宝くじのイメージアップを図るための広報支援と引き換えに渡されるもので、宝くじの利益が公益に資することを広く知らしめるためのものだが、本来の地方財政への貢献が見えずにこちらばかりが広まっているというのが実情のようである。

 
鈴木悠平さんが公園でたまたま発見した宝くじ助成の遊具

鈴木悠平さんが公園でたまたま発見した宝くじ助成の遊具

 

 宝くじは現在どれくらい買われているのか。コミュニティでは現在自分が購入しているという人はほぼゼロであり、多くは父母、祖父母が買っていたという話にとどまっていた。昨今インターネット上では宝くじが情弱ビジネス、愚者の税金と揶揄されることもあり、実際にデータを見ても宝くじの売上は単調減少している。

 しかしそれでも総額8000億円弱、地方自治体への収入3000億円というのは凄まじい額である。日本の個人寄付の総額が2000億円〜5000億円と言われているから、それに匹敵する寄付額を生み出しているといえる。

 宝くじの購入にあたり、よく耳にする動機は「夢を買っている」「抽選を待つ時間が楽しい」という消費的態度にとどまっているが、コミュニティ内では寄付の新たな一手段として肯定的に捉える意見もあった。

  • お金の集めやすい手法を使い、それを原資に別の目的に利用するという役割もテクニックとしては必要

  • 宝くじの高揚感を味わいつつ、そのお金が一部寄付に回るというのは一石二鳥でよいモデル

  • 「寄付とか機会があったらしてみてもいいんだけどな」と思っている中〜高額所得者のはじめの一歩として、ハードルはかなり低い

 昨今続く天災やふるさと納税の流れからか、納税とは異なった形での自治体への贈与も見直されている。たとえば今「首里城再建支援宝くじ」が販売されたらどうだろうか。当たれば儲けもの、外れたら寄付。宝くじは人心にフィットした贈与の仕組みなのかもしれない。