寺子屋レポート|物語する贈与


大島弓子の短編漫画「ロスト ハウス」を題材に「偶然のふりをする贈与」について考察する

佐々木耀
大島弓子『ロストハウス』

導入

物語は主人公の「エリ」が「樫原」にナンパされる場面からはじまる。
樫原は初めてエリを部屋に招き入れた際にレイプしようとするが、未遂で終わる。
その後、謝罪する樫原に対してエリは以下のように要求する。

そうだわ 一ヶ月間あなたがあのへやの鍵をかけないですごしたら許してもいいわ
そしてその間あたしがいつなんどきあのへやに入ろうとあなたは完ぺきにわたしを無視してすごすの
それができたらね ※1
(p.131中段中コマより)

エリの要求は、適切な謝罪の方法とは到底思えない。
なぜこのような要求を突きつけたのか、それは彼女の過去に起因する。

エリの過去

エリは幼少時代、隣人の「鹿森さん」の部屋に毎日のようにいりびたっていた。
散らかっていていつも鍵が開いている、その部屋がエリには魅力的だった。
しかし、鹿森さんの彼女の事故死と、エリの一家の引越しをきっかけにその関係は終わる。
エリはその体験を「永遠に失われてしまった解放区」と形容している。

すなわち、前述した「エリの要求」とはこの「解放区」の復活を目論むものである。
ではこの「解放区」とは具体的にどういうことか。

解放区

わたしはこの世にたったひとつ好きなものがある 他人の散らかった部屋である
(p.128下段右コマより)

これはナンパに遭い、初めてエリが樫原の部屋に訪れた際のモノローグである。
すなわちこの時点でエリは【解放区=鹿森の部屋=散らかった部屋】と考えており、
同様に散らかっている樫原の部屋を「解放区」に見立てていることがわかる。
しかし、レイプ未遂によってこれが誤りであることに気づいた。
だが、エリは「解放区」の復活を諦めない。そして要求(※1)を持ち出したのだ。

要求の前半「部屋の鍵をかけないこと」は鹿森さんの部屋がそうであったということだろう。
加えて、「入退室が自由な」遊び場を指していることは容易に想像することができる。
では、後半の「わたしを無視してすごす」とは何か。

この問いに答えるヒントとして、過去に鹿森さんの部屋で「鹿森さんの彼女(以下彼女とする)」と居合わせた際の、エリのモノローグを引用する。
彼女がお茶を飲むときはお湯のみをふたつ用意する
そして わたしの前にひとつ置いてから自分も飲むのだった
わたしはお茶をのんでものまなくてもよかった
湯気がゆらゆらと形を変える様子を見ているだけのときもあった
(p.147下段)

これがエリ視点のモノローグであることに留意したい。
この「わたしはお茶をのんでものまなくてもよかった」が「わたしを無視してすごす」と対応するのではないだろうか。
彼女はエリにお茶を出してくれる。しかし、それはあくまで彼女がお茶を飲む「ついで」である。
彼女がお茶を飲むかどうかはエリが居る居ないに関わらない。その意味でエリは「無視されている」。
また、彼女側がお茶を「飲む」と漢字表記されているのに対して、エリが「のんでものまなくてもよかった」の表記は仮名表記であることにも注目したい。
この仮名表記は「のんでものまなくても」は「(お茶を)飲んでも飲まなくても」と「(雰囲気・要求を)呑んでも呑まなくても」という二つの解釈を意図していると思われる。
自身が「雰囲気に呑まれる事のない」関係性が成立する場こそが、エリにとっての「解放区」なのである。

偶然のふりをする贈与

「のんでものまなくてもよかった」が「わたしを無視してすごす」に対応することを前述した。
しかし、これはあくまでエリの視点から捉えた場合である。
では、(鹿森さんの)彼女の視点からするとどうだろう。これは明らかに「無視していない」と言わざるを得ない。
言い換えるならば、彼女がお茶を飲みたくなったタイミングで「たまたま」エリが居合わせたのだという「ふり」をしたということである。

彼女は「偶然のふりをする」ことによって、エリに「解放区」を与えたのだ。無論、「解放区」の主人たる鹿森さんも同様に振る舞っていたことだろう。これらは「偶然のふりをする贈与」と言うことができるかもしれない。

そしてこの「偶然のふりをする贈与」は間違いなく、私たちの日常にもありふれている。
例えばそれは、作りすぎた料理をお裾分けすることであったり、要らなくなった衣服を他人にあげることであったりする。
穿った見方をすれば白々しくも捉えられる。だが、我々はそれらを当たり前のように受容し、むしろ他社との関係性を維持する上で必要としながら生きている。

「偶然」と「偶然のふりをする贈与」

エリは幼かった頃の体験であるがゆえに、「偶然のふりをする贈与」を「無視されている」と解釈し、自身の「解放区」を実現するための要求としてそれを加えた。
しかし、残念ながらエリの思惑通りに「解放区」が復活することはない。
樫原宅が盗難に遭い、樫原の部屋の一切のものがなくなってしまうのである。
エリはそのことに責任を感じ、弁償することを持ちかけるが、樫原はそれを拒否する(厳密には一旦は借りるが、それらを必ず返済すると述べ、アルバイトに勤しむ)。

ここでもうひとつ、エリのモノローグを引用する。
盗難があった後で、依然として鍵が開けっぱなしの何もない部屋にて、バイトに疲弊して寝入っている樫原が起きるまでエリが待つシーンである。

なんにもないけど
いまのここの空気は
あのへやににてなくもない
(p.160中段右コマ)

「いまここの空気」、すなわち「樫原の部屋」では、エリは「無視されている」と感じているし、樫原は寝入っているため実際にエリを「無視している」。
一方で「あのへや(=鹿森さんの部屋)」では、幼い頃のエリは「無視されている」と感じていたが、実際のところ(鹿森さんの)彼女は「無視していない」。
そして、それらは同じではなく、異なるわけでもなく、「にてなくもない」のである。
その場で感じている「偶然」と、過去に感じた「偶然のふりをする贈与」との差異を、大人になったエリが細やかに感じわけている様子が、この「にてなくもない」というモノローグから浮かびあがってくる。

私たちは他者に贈与をおこなうために、それよりも遥かに多くの偶然を経由している。
だとすれば、実際にこう言えるかもしれない。
「偶然」と「偶然のふりをする贈与」は「ににてなくもない」のだと。


「人類史=物語」と見立てて、特に「長期的未来に影響を及ぼす行為とその贈与性」について考察する

Sho T
相対性理論/サグラダ・ファミリア

哲学者・研究者・アーティストなどの行為は、「ある時代のある時点」においては、「何の役に立つのか?」と思われることも少なくありません。しかし、長期的に見たときに、「未来の人類に大きな可能性(選択肢の幅を広げる)を贈与している」とも考えられます。人類史の中で、「時間を越えて、与え、受け取る」やり取りについて考えてみたいと思います。まずは、いくつかのケースを見てみましょう。

【ケース1:アインシュタインの相対性理論】

相対性理論によると、時間は相対的なものであり、光速に近づくほど時間の流れはゆっくりになる、質量が巨大なものの周りでは時間の流れがゆっくりになる、ということを示していますが、「だから何なのか?」というのが通常の反応であると思われます。しかし、例えばGPSなどから得られる位置情報は、人工衛星と地上の重力の違いから時刻のずれを計算し、位置を補正しています。もし補正をしない場合、1日で数kmの誤差が出てきてしまいます。スマホが普及した現代において、この位置情報補正一つをとっても、我々の生活に大きな影響を与えています。アインシュタインが相対性理論を発表した20世紀初頭から約100年をかけた贈与を私たちは受け取っていると考えられます。

【ケース2:ガウディのサグラダファミリア】

サグラダファミリアは1883年からガウディが設計した教会建築ですが、当時完成までに300年はかかると言われ、彼は自身の死後に完成するこの壮大な計画に、身の回りの全てを捧げて貢献しました。彼が電車にはねられて亡くなった際、身の回りの全てを教会建築に捧げていたため、とてもみすぼらしい格好であったと言います。そんな彼のビジョンへの貢献を後世の人々が受け継ぎ、この教会は市民による寄付で現在まで建築工程が継続しています。彼の「自然を表現した建築」は、世界中のアーティストやビジョナリーに影響を与え続けています。また、このビジョンに対して多くの人が時間を超えて寄付・支援を行っています。

上述のケースは、長期的未来に影響を及ぼす行為とその贈与性を示す一端ですが、このようなケースでは、贈与が適切に受け取られるまでには「時間差」があることもわかります。例えば、その人の死後に世界がその人から贈与を受け取るといった時間差です。

その場合、ある種その行為者は「犠牲」とも捉えられるシチュエーションにも遭遇します。また、世界の視点からは、受け取れるまでの時間差が長いほど「機会損失」も起こり得ます。チャールズバベッジは19世紀に世界で初めてプログラム可能な計算機を考案したが、コンピュータはその約100年後の20世紀に登場しました。

そのような機会損失を繰り返さないよう、後世の人が「贈与を受け取ろう」とする努力もあります。例えば、テスラモーターズの名前は、ニコラ・テスラから引用するなど、多くの先人のビジョンを後世に気づいた人が受け取る・引き継ぐといった「時間を超えた贈与のやりとり」に積極的な人もいます。

このように、人類史というストーリーを考察すると、贈与を「長期的未来に影響を及ぼす行為」や「その受け取りまでの時間差」の視点で見ることができ、また、それを意識し積極的に時間を超えた贈与のやりとりを試みるアプローチなども考えることができるのではないかと思います。


権利と贈与

堤春乃
宮本輝『彗星物語』

 私は大学時代にスウェーデンに留学をして、ヨーロッパの各国の友人と出会いました。彼らと過ごした日々はとても刺激に溢れて楽しい日々でしたが、彼らと話をするときに、よく「権利」を主張されたことを覚えています。その度に違和感を感じていたのですが、果たしてそれは何から来るものだったのか。今回は「彗星物語」というお話から考えてみたいと思います。

 彗星物語は、13人の大家族と犬1匹の城田家にハンガリーからの留学生、「ポラーニ・ボラージュ」がやって来て、その後3年間にわたる共同生活の様子を描いた物語です。そもそも留学生を世話することになったのは、当時事業を営んでいた晋太郎が10年前にボラージュの両親に生活費と学費の面倒をみると約束したことがきっかけです。

 始めの頃は、日本語も辿々しいボラージュは、城田家の家族が色々なことが起きる中でも世話をしてくれたり、衣食住が保証されて大学で勉強に励めることに感謝をしています。しかし、2年が過ぎてボラージュも日本での生活に慣れ始めた頃から城田家の家族に対して様々な主張をし始めます。その1つがボラージュは成績優秀者となり月に17万円の奨学金を大学から貰えるようになったことで残りの1年を城田家の家ではなく、大学の寮で暮らしたい。というものでした。

 ボラージュは大学の寮で暮らしたいという主張を理解してもらうために、ボラージュの一切の生活費を負担すると決めた晋太郎の長男幸一に、一緒に他の家族の説得を手伝って欲しいと切り出します。そしてその中で幸一にボラージュはこう伝えるのでした。

 「ぼくも幸一のように自立をしたい。(社会人の幸一はすでに家を出て一人暮らしをしている。)ヨーロッパでは、みんな大学生になったら親から離れて自立する。それは当然の行為であるし、おとなになったことに対する権利でもある。」

 「ぼくはもうひとりで日本の生活をする能力がある。毎月、17万円の奨学金が貰えるようになった。それはぼくの成績が優秀だからだ。それはぼくの能力によって得た生きる糧だ。幸一の理論に従えば、僕は自立の権利がある。」

 この一節を読んだ時にボラージュに感じた違和感の正体が、ナタリー・サルトゥラージュの著書「借りの哲学」に出てくる「借りを拒否する人々」にありました。

 「借りを拒否する人々」は、借りなど存在しない、と借りそのものの存在を認めない「否認」と、借りは認めた上でそこから逃げる「逃走」の2つがあるとナタリー・サルトゥラージュは指摘します。この点においてボラージュの主張は「否認」に近いと感じました。

 自分が、権利の主張の根拠としている成果(今回でいう奨学金を貰えるくらいの大学での成績を獲得出来たこと)が、誰かからの贈与があった上で獲得できたものであるという認識をせず、自分の実力だけで獲得できたと主張する姿は、幸一が指摘するような城田家がボラージュというどこの馬の骨からもわからない異国の青年を二年間無償で支えてきた事実を排除する姿勢を受けます。

 その後、城田家と激論を交わし、結局はボラージュは寮で暮らすこととなります。しかし、もし、ボラージュが「2年間にわたる城田家の支えがあって、自分は勉強に勤しみ、成果をだすことで、奨学金を借りることが出来た。だからこそ、自分はこの17万円を活かして残りの1年寮で生活したい。」と借りの存在を認識した上で寮での暮らしを提案していたら、城田家の人々の受け取り方は大きく違っていただろうと思います。

 私がかつてヨーロッパの友人に感じた違和感も、彼らの主張には他者や社会からの贈与の認識が欠けていると感じたからだと、今回の彗星物語の一節を通じて、気づくことが出来ました。


竹取物語に見る贈与と関係

阿曽祐子
『竹取物語』

 竹取物語のシーンを3つ取りだして、贈与という視点で考える。
① おじいさんがかぐや姫を拾って育てる
② かぐや姫の提示した難題に求婚者が必死で応え、かぐや姫が判定をする
③ おじいさんが月へ帰らなくてはならないかぐや姫を引き留める

 これらの関係を贈与(与える)、見返り、贈与に伴うリスク、生まれる関係性という視点で見たい。

 ①において、与え手はおじいさん、受け手はかぐや姫。おじいさんは、かぐや姫を連れて帰るときには、決して見返りを期待していない。敢えて言うなら、成長するかぐや姫の愛らしさ、後に得た小判。だが、いずれも予想されたものではなく偶発的なものである。与え手から一方的に受け手に向かっていく贈与。想定外のことが起きるリスクは十分にある(かぐや姫が逃げ出すこと、成長が止まること等々)が、与え手は受け手に一方的に希望的に信頼を寄せている。一方的に何かを託していると見ることもできる。翻って、都合が悪くなったら、いつでも放棄する余地がある。この点で無責任でもある。

 ②を見ていく。かぐや姫と求婚者。双方が条件を満たせば成立する交換である。求婚者がモノを間違いなく持ってくれば、かぐや姫と結婚できる。かぐや姫は、提示した通りのモノを持ってこない限りは結婚しなくてよい。双方にとっての想定外が起こることは考えにくい。与え手と受け手は合意したルールの上で、双方が必ず予定した見返りを得られる対等な関係である。物語では、求婚者たちが一向に条件を満たさないために、交換が成立しない。

 続いて③の関係を見てみよう。一見①に近いようにも見える。しかし、月へ帰るかぐや姫を引き留めて引き受ける行為は、永続的に何があっても関係を続けるという覚悟が必要になる。この先かぐや姫が思った通りに成長しなかったら、①の状態であれば竹林に戻って捨て置くこともできたであろう。しかし、今回はそうはいかない。どんな想定外が発生してもお互いにそれを背負う覚悟のもとで結ばれる関係。見返りは、関係の継続そのものであり、相互に作り上げていくものでもある。双方が与え手であり、受け手でもある。相互生成的な関係である。

 私たち人間はこの世界に生まれ落ちてからというもの、先人たちが育んできた環境を享受しつつ、まずは相互生成的な関係(③)のなかで育つ。成長に伴い偶発的かつ無責任な親切(①)に助けられ、交換(②)のもとで社会生活を営むようになる。労働などはまさに②と言える。そして、いつか相互生成的な関係を再生産していく(必ずしも家族の再生産だけでもない。技術の再生産や人材の再生産なども含みたい)。

 近代的な個人の理想像は、いつも①や③を忘れさせる。そして、自分と他人は違う!他人の領分は犯すべきではない!自分の力だけで生きていくべき!と規範を迫る。

 私たちには、真面目に働いて稼ぐ労働者でもあれば、後輩におごる先輩でもある。見知らぬ老人に席を譲ることだってあるし。子どもの笑顔に癒され喜んでおむつを替えることもある。私たち一人ひとりの中にも、いろいろな可能性がある。与え手になることも受け手になることも、どちらでもない関係を結ぶこともある。同じように周りの人にもいろいろな可能性がある。さらに、先人たちから贈られた環境の享受者としてだけはみな平等である。

 かぐや姫は「年をとることもなく悩みごとのない」月に帰りたくないと嘆くものの、最終的に月人たちに捕らえられ「きたなきところ」である地上の記憶を消されて行ってしまう。月の生活はどのようなものだろうか。
それぞれの個人の違いを認め合うが、完全に距離を置く世界?
ルールを守って干渉しあわない世界?(何だかどこかで見たような分断?)
人々が自他の違いを認識しない世界?あるいは、感情が動くようなことがない世界?

 うーん、いかがなものか。先人の言った通り「私たちの持っているもので人から借りていないものはない」。そして、私たちは、必ずいつかは何も持たずにこの世から旅立つ。せっかくなら「おかげさま」「ありがとう」「たすけて」を使い分けながら、涙と笑いを再生産しつつ、ゆけないものか。ときに、偶発や無責任に遊んだっていいのだ!

参考文献
・竹取物語(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)
・手の倫理 (講談社選書メチエ)– 2020/10/9伊藤 亜紗


分け前と過剰と赦し

加藤めぐみ
福永令三『クレヨン王国 水色の魔界』


 物語と贈与を考える題材として、福永令三の「クレヨン王国」シリーズから『水色の魔界』を取り上げる。福永が「地球主義」を訴えるために何十冊も書き継いだ同シリーズは、小学生向けでありながらも、強いメッセージ性を持っている。

 『水色の魔界』は、怒りをテーマにした物語として読むことができる。本作の言葉を借りれば「水と同じように、形がかわっても循環してながれていく」怒りをいかにすべきか、という問いである。もう一つの大きなテーマについては後述する。

 主人公のカッちゃんは心優しい少年だが、些細なことでカッとなりやすく、周囲とうまくいかないことが多い。絵を描くことが好きな彼の「12色のクレヨン」たちが、主の怒りっぽい性質を心配するところから物語は動き出す。カッちゃんのいる人間界とは別に、クレヨン王国という場所があり、王国の片隅には魔界がある、という世界観のみ押さえておいていただきたい。カッちゃんが11歳の誕生日を迎えた頃、水色クレヨンが「彼の怒りのエネルギーを運び出して魔界に捨ててくる」という奇策を思いつき、それを実行した。カッちゃんは穏やかになったものの、人間界と魔界の間に回路を開いてしまったことが、後に彼を怖ろしい体験に引き込むことになる。

 もう一つのテーマは、シリーズに通底する「地球主義」である。本作では、人類の長年にわたる横暴に対し、ついに自然が牙を向いたという筋書きとして現れる。「お前ら人間が、すべての命を資源と称して勝手に管理し、なぶり殺しにしていくのを見て、われわれの忍耐も限度にきた。われわれも、お前たちと同じように、目には目を、歯には歯をで、怒るしかないところまで追い詰められた。われわれは、本気で復讐する」。

 クレヨン王国の水色の魔界には、人間に恨みを持つ魚の霊が集った。ここで、水色クレヨンが開いてしまった回路が、カッちゃんと魔界をつなげてしまう。学習塾に向かうつもりが、彼はいつのまにか秘境ツアーに向かうという団体列車に乗り合わせていた。大勢の大人とカッちゃんを乗せて列車が向かった先は「水色の魔界」、魚霊の支配する世界だった。魚霊たちは、自然からの贈与の域を超えて自然を収奪した人類に、返済を求める。目には目を、歯には歯を、等価交換を。

 真実を明かされる直前、秘境ツアーのイベントとして、一円玉のつかみ取りが開催されていた。後に正体を現した魚(故郷の池を埋め立てられ、同胞をなぶり殺しにされた大ゴイが復讐の首謀者という設定である)は、つかみ取りした一円玉の数に従って、七人だけを無事に帰すと約束する。3000ダカットよりも遥かに軽い命の値段。福永は明記していないが、恐らくは魚一匹の値段が想定されているのだろう。案の定、一円玉の争奪戦が始まった。やがて人々は、他人に一円玉を奪われないよう、強力な糊で皮膚に貼りつけ、全身アルマジロのようになって霧の中を行進していった。

 しかし、それこそが魚の企みであった。死んだ魚が豪雨のように降り注ぐ。恨みの死魚が一円玉に触れるたび、一円玉は卵を産んで増殖し、人々は頭のてっぺんから足の裏まで一円玉の鱗に覆われてしまった。これが利子の、あるいは資本のメタファーだとすれば、福永の皮肉に身震いするほかない。鱗に覆われた人間たちには、魚として人間界へ戻される運命が近づいていた。

 カッちゃんのクレヨンたちは奔走し、額に貼ること人間界に戻ることのできる護符を手に入れ、彼を救うために魔界に乗り込んだ。カッちゃんは運良く一円玉を持たず(正確には、大ゴイの身の上を聞いている間に、強欲な女性にだまし取られ)、魚になる運命をひとり免れていた。しかし、カッちゃんはクレヨンから受け取った護符を、ナマズ(大ゴイの部下)に渡してしまう。ここで具体的に贈与されているのは護符であるが、それはカッちゃんの自己犠牲と同義であり、『水色の魔界』で最も印象的な贈与のシーンといえるだろう。連想されるのはジョバンニの「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」という台詞であるが、ただしカッちゃんのそれは「みんなの幸い」を目指すものではなく、ほとんど無意識の、人間を代表した贖罪の行為であった。

 「ありがとう。俺よりも、いちばん苦しいこの大将に」。ナマズが大ゴイの額に護符を貼りつけると、大音響が轟いて、カッちゃんの眼前からすべてが消滅した。

 "登場人物の気高き精神と裏腹に、物語は報恩を課してしまう"。贈与のナラトロジー(#4-1)で指摘された法則は『水色の魔界』にも働き、カッちゃんを含む人間たちは人間界に戻ることができた。その機序は詳述されておらず、われわれ読者は何が起こったのかを推測するほかない。おそらく、件の護符が持っていた「魔界から戻れる」という効能は、魔界そのものともいえる魚霊にも適用され、増幅しつづける怒りと恨みの連環から彼らを救い出したのではないだろうか。そして、魔界そのものが一時的にも消滅したゆえに、人間たちはそこから解放された、と考えれば筋は通る。

 カッちゃんの、文字どおり全身全霊の贈与は、しかし、人類の長きにわたる収奪とは釣り合わない。読者は心のどこかでそのことに気づいている。自然は、自然の一部としての人間にも「分け前」を与えてくれるが、われわれは分け前以上のものを奪い続けている。この物語で驚くべきは、そこにわずかに生じた贖罪の行為、わずかにまっとうな関係を結ぼうとしたカッちゃんの行為を、未だ奪われ続ける自然が受け入れたことではないだろうか。

 「クレヨン王国」シリーズは、繰り返し人間の愚かさを説くが、同じだけ繰り返し、自然の赦しを語る。赦しとは、往還する贈与の関係を(再び)受け入れること、結ばれた関係の未来を信じようとすることである。そして、未来を作る力を持つのは、その場限りで清算される交換ではなく、不均衡を揺らしながら進んでゆく贈与なのではないか。贈与のナラトロジーについて、私はそのように考えてゆきたい。


まれびとが引き出す余剰

鈴木悠平
『ストーンスープ』

今回の卒論では、「ストーンスープ」の寓話を取り上げる。

貧しい身なりの旅人が小さな村にやってきて、食べ物を乞うが、村人には冷たくあしらわれてしまう。一計を案じた旅人は、「ストーンスープをつくるので、鍋と水だけでも貸してほしい」と言って、村の広場の中央で火を起こし、石と水だけの鍋を温めはじめる。

温まったストーンスープ(石の入ったただのお湯である)を味見して、「悪くない。ここに○○があればもう少し美味しくなるのだがな」とつぶやく(○○の中身は、塩だったり、人参あったり、玉ねぎだったり、さまざまな鍋の具材)。

「ストーンスープ」なんて聞いたこともない料理だ。いったいどんなものだろう。家の中から旅人の様子を伺っていた村人たちは、旅人のつぶやきに応じて家の中から手持ちの具材を次々と提供する。そうして鍋がたくさんの具材で溢れ出したころに「よし、完成だ」と旅人はしれっと宣言。旅人も村の人たちもお腹いっぱいになるまでスープを味わった、という寓話である。

―――

物語の始まりでも、旅人はストレートに物乞いを、つまり食料の「贈与」をお願いしているが、怪しいヨソモノに贈与するような食料はない、と村落共同体からの拒絶を食らってしまう。結末を見ればわかるように、旅人は贈与を引き出すことに成功している。それも当初以上の規模の贈与(村中で分け合ってもお腹いっぱいになるぐらいの)を。

・「ストーンスープ」という、よく分からない料理をつくり始める、というエンタメ導入による興味関心の引き出し
・「ストーンスープをつくるための材料だから」という建前による、贈与ハードルの引き下げ(村人自身も気になっていて、食べてみたいから、単なる施しではなく材料提供による共同制作という、言い訳ができる)
などが、旅人の作戦には盛り込まれていて、とても賢い手段である。

それだけでなく、
・物乞いする人・される人という2者間ではなく、村全体へのコミュニケーションの拡張
・村全体で分け合っても余るぐらいの大量のスープ
という、「2者による等価交換→コミュニティ内での循環へ」「余剰・過剰さのあらわれ」なども非常に贈与的だ。

寓話の中では、普段の村の暮らしや人間関係は詳しく言及されていないが、冒頭の冷たい対応を見るに、それほど豊かではなく、ヨソモノへの不信感が強いことから、「みんなでスープをつくって分け合う」というようなことは、あまりなされていなかったのではないかと予想する。

コミュニティの外部から来訪した「まれびと」がきっかけとなって、コミュニティに新しい風が吹き込み、自他の境界がほころんで開けていく。実は一番の贈与は、この旅人が村にやってきたということなのかもしれない。


シェアハウスの贈与構造

市村彩
松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

T君
この本を読んだ時に、「交換モードは感情をできるだけ排除して、自己利益を一つの価値基準として考えた時に出ててくる現象だ」と説明されていて、個人的にスッキリした。
例えばシェアハウスでの問題に食器放置問題があるけど、交換モードで自己利益の物差しが入ってしまうと、自己利益を優先しすぎるがあまり、人任せにしてもいいやという現象が生まれるのではと思う。

Eさん
そもそも交換モードでシェアハウスに住めないよね。本来は気づいたらやる、ってするのがいいよね。

T君
昔は掃除をしない人に対して罰則があって、すごく交換的に感じて、シェアハウスでやる意味ってあるのかな、と。贈与の感情がなくなってしまう。

Yさん
私が入居して罰則制度に対して思ったのは、そもそも同じだけの労働を住人全員に課す必要があるのかというところ。
この家に住んでいる以上何かしらの貢献はすべきだけど、粒度はバラバラで良くて、家のために自分のできる範囲・自分の得意な範囲で交換すればいいんじゃないかと思っていて。
それで罰則をやめて、それまで週ごとに変わっていた掃除場所を固定にした。
そしたらトイレが汚かったら担当の人に「最近トイレ掃除サボってるんじゃない、あなたが自分でそれをやるって決めたのにできてないんじゃない?」って言える。もし負担が大きいなら別の方法を考えて、トイレ掃除は他の誰かにお願いすればいい。今は一旦、こういう形をとってる。
これが贈与なのか交換なのか聞いてみたいと思ったんだけど。

Iさん
贈与の側面が大きいと思う。逆に罰則は交換的。交換モードってすごく平等なんだけど個性は無視してる。腰痛持ちなのに、そこに平等を持ち出してトイレ掃除しなさいは違うかなと思う。うちにはもはや掃除制度もないんだけど、それはそれぞれが掃除っていうのも超えて、それぞれの個性で家に対する貢献をしてるよねっていうのをみんなの認識としているから。

シェアハウスと後ろめたさと暴力性

Iさん
掃除制度がないと、掃除で誰かがきれいにしてくれてるなって感じた時に後ろめたさを覚えて「やばい、最近全然掃除してない」って思って、気づいた時にお風呂を磨く、みたいなことをしていて。私がその感覚を最低限持つようにしている。でも入居した時は全然何も感じなかった(笑)贈与モードになるには感覚をもつ、後ろめたさを戻すみたいなことが書かれていたけど、自分も取り戻したのかもしれない。

Eさん
私は贈与モードの時に、後ろめたさよりも好きで動いた方が続くと思って。私がなんで掃除するかって言ったら、このコミュニティが好きだしこの家が落ち着けると思うから。好きだから尽くしたいと思う。自分の友達に対して、好きだから笑顔になってほしいって思うのと一緒。別に自分が何をやったってカウントする必要もなく、例えば人が食べた洗い物を誰が食べたかわかんないけど私が洗っても、私はみんなからいろんなものを教えてもらってると思うんです。毎回みんなにありがとうって言えないかもしれないけど、間接的にその人が食べた物を洗うことでお礼ができるかなと思ってやる。後ろめたさも確かに大切かもしれないけど、個人的には好きベースで物事が進むといいなって思うんですよね。

S君
動機が違うわけじゃなくて言葉のニュアンスの違いな気がするけどな。

T君
アオイエが好きだから積極的に家事をやって、その人自体は好きでやってるんだけど、周りが後ろめたさを感じることはありうる。

Eさん
それが贈与か、受けた方は断れないもんね。

S君
贈与ってかなり暴力的だね。

Iさん
本当にそれ。今贈与の勉強してるんだけど、やってるとどんどん交換について勉強したくなってきて、2周くらい回ってやっぱ交換良くね?みたいな(笑)エチオピアの例にもあったけど、贈与の関係って暴力を受け続けることであって、すごくストレスにもなる。バランスを考えたいよね。